礼拝
『主の聖餐』Ⅰコリント11:17-28
山田雅香牧師
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の
死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:26)
導入
私たちは毎月聖餐式を行っているが、それが形式的な、中身の伴わないものになってい
ないだろうか。今回の箇所では、パウロがコリント人への教会に対して、そのことを指摘
した内容となっている。
聖餐式の意味と恵み
聖餐式で口にする、パンはイエス様の身体、杯はイエス様の血を表すものである。そし
てこれは、イエス様が十字架で私たちを贖ってくださったことを思い起こすためのもので
ある。パウロは“主が来るまでは主の死を告げ知らせるのです(26節)”と言っているが、イエ
ス様の復活というその鮮やかな御業よりも、十字架での死に焦点を当てているのは、イエ
ス様が命をかけて私たちを愛してくださったその恵みを、聖餐式で深く思い起こすためな
のである。
聖餐式を通して
聖餐式において私たちは今一度自身がどんなところから救われたのかを深く思い起こす
とともに、救われてもなお完全な者にはなれず、御言葉に照らされて示される罪もたくさ
んあることを思う。しかし神様はそういうところも含めて、私たちを愛し、招いてくださ
っていることを覚えたい。またそれと同時に、自身が足りない者であるからこそ、イエス
様と聖霊の導きが必要なのだということを主の前に告白し、聖餐式を重ねる度にさらなる
深い信仰へと導かれていくのである。そして、神様から受けた愛に応答するものへと成長
していきたい。
(補足)当時のコリント教会が陥っていた罪
当時の聖餐式は、クリスチャンの家で愛餐のような形が取られていた。また、ローマの
影響で、そのように人を招くときには、身分に合わせた食事と部屋が用意されていた。こ
の差別的なやり方に対してパウロは注意喚起していたのである。貧しい人が寂しい思いや
満たされぬ思いをしているのは、手を差し伸べる愛のないクリスチャンの責任である。
まとめ
聖餐式の度にイエス様の十字架の愛を深く受け取っていき、なお謙遜な気持ちで神様を
求め続けるとともに、注がれた愛に応答し、神様にも人にも愛のある行いのできるクリス
チャンとなる。
2026年5月31日(日)
