礼拝
『弟子の足を洗う』 ヨハネ13:1-15
「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を
肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」(ガラテヤ5:13)
導入
過越の祭りの夜、イエス様は弟子たちの足を洗われた。これは身分の低い奴隷が行うも
ので、誰もが拒むようなものであった。しかし、イエス様は“師”や“主”と呼ばれるお方であ
りながら、弟子たちの足を洗われたのである。それは何故か。
イエス様の洗足が表すもの
①愛…1節の“最後まで愛された”という言葉は注釈に“極みまで”と記されていることに注目
したい。イエス様はまもなくご自身が十字架にかかって死ぬことを知っていたので、最後
に弟子たちに極みまでの愛を、洗足によって示されたのである。そしてこの底知れぬへり
くだりと底なしの愛は、十字架の愛をも象徴しているのである。
②聖め…8-10節に注目すると、弟子が足を洗われなければイエス様とは無関係になってし
まうことと、洗うのは足だけでよいことを見ることができる。これは、私たちが聖められ
なければ主とは無関係になってしまうこと、イエス様による聖めはたった一度で完全にさ
れることを表している。十字架の聖めを象徴しているのである。
イエス様のお姿に倣って
この時期、弟子たちは自分たちの間で誰が一番偉いかを話し合っていたことがルカの福
音書に記されている。そんな気持ちの中で、イエス様が自分の足を洗ってくださったとき
に何を思っただろう。人は皆、どこかで自分を誇ろうとしてしまう者である。しかしその
時、イエス様のお姿を思い出したい。命を捨てるほどの愛とへりくだりをもって、罪人で
ある私たちを聖めてくださったイエス様を思うとき、私たちはとてもおごり高ぶってなど
いられないはずである。
イエス様のお姿に倣って、私たちも主に仕え、人に仕え、愛とへりくだりを持って歩み
続けなければならない。
まとめ
どうしようもない罪人であった私たちを救ってくださったイエス様の十字架の恵みを思
い起こし、イエス様のような愛とへりくだりを持って、最後まで主とともに歩む。
2026年3月1日(日)
