礼拝
『エリシャとナアマン』 Ⅱ列王記5:9-14
「心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。」(ヤコブ1:21)
あらすじ
イスラエルと敵対していたアラムの国の軍隊長ナアマンはツァラアトに冒されていた。すると、妻に仕えるイスラエル人の奴隷の娘の進言があり、妻がその通りにナアマンに伝えたので、彼はイスラエルの神の預言者エリシャを訪ねることにした。
簡単なことに対して
エリシャは遣いの者に言付けし、ナアマンに“ヨルダン川で7回身を洗いなさい”と伝えた。ナアマンは、エリシャ本人が応対しなかったことと、簡単すぎる指示に対して、憤ったものの、家来の進言によりその通りにした。するとツァラアトはすっかり癒やされたのである。
私たちも時に神様に示されたことが簡単すぎると、本当にそんなもので効果が得られるのかと思ったり、プライドが傷つけられたような気がしたりするかもしれない。また、私たちは弱い生き物であり試練の中にあれば信仰が揺らぎ、好調すぎると自分を誇ってしまうような者であるが、改めて自分がどれほど神様に愛して頂いて、どんなところから救われたかを思い起こし、御声に従う者とならねばならない。
偶像との接触を許された
ナアマンはツァラアトが癒やされたことで、イスラエルの神こそまことの神であることをはっきりと理解し、信仰に入った。しかし、アラムの国の王はリンモンの神殿で偶像を拝んでおり、その王に合わせてナアマンもリンモンの神殿でひれ伏さなければならないことをエリシャに伝えたところ、なんと神様はそれを許されたのである。
これはどういうことか。それは聖書には明記されていないが、神様はすべてをご存じのお方であるので、おそらくはナアマンの信仰が確固たるものであり偶像に惑わされないことを知っておられ、また、その偶像にひれ伏さなければならない境遇の中で、さらに信仰が成長することを期待されていたのかもしれない。
人間は先々のことを予測することはできないが、神様だけはずっと先のこともすべてご存じである。だから、私たちを正しい道に導くことができる。そのことを心に留め、神様に示されたことに戸惑いを覚えることがあっても信じて従わねばならない。
ナアマンの人柄
ナアマンは、妻の奴隷のような身分の低い者の進言や、家来たちの進言をも聞き入れるような人柄であった。だからこそ、彼らもナアマンに進言することができたのかもしれない。また、ナアマンは最終的にはエリシャの指示に従ってツァラアトが癒やされたわけだが、このエリシャに至っては敵国かつ劣勢のイスラエルの、大した身分もない預言者である。こんな圧倒的身分差の者にも聞き従った彼のように、私たちも開かれた心を持ちたい。
まとめ
・神様に示されたことが、簡単すぎたり戸惑いを覚えたりするようなことであっても、神様が全知全能のお方であることを思い、全幅の信頼を置いて聞き従う。
・ナアマンのように、身分やプライドに囚われず開かれた心を持って聞き入れる姿勢が大切。
2025年9月7日(日)