礼拝〜午前の部〜
宮澤豊師
『あなたは神の最高傑作品』 イザヤ64:8
「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶
器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」(イザヤ 64:8)
導入
私たちは、自分が存在する理由やその目的が解らなくなると、空っぽになって絶望して
しまう。しかし、神様には、ちゃんと理由と目的があって私たちを創造してくださり、最
高傑作品としてくださったのである。
最高傑作である理由
①神様が作ってくださったから
神様はすべてを支配することのできるお方であり、完全で完璧なお方である。そんな神
様が失敗作を作るわけが無い。実際、創世記においては、神様は作った人間を見てそれを“
良い”と思われている。
②愛に生きることができるから(修復された関係)
神様に作られた私たちは本来、神様を愛し神様に愛され、その愛をもって互いを愛し合
うという、愛に生きる者として作られている。しかし罪を犯してしまったことで神様に愛
されていることが解らなくなり、その関係が壊れてしまったのである。イエス様の十字架
は、そんな状態を修復し、私たちが本来の愛の姿で生きられるようにしてくださったので
ある。
③不変の価値
例えば、一万円札は新券だろうと汚れていようとグシャグシャだろうと、通貨としての
価値は変わらない。それと同じで、神様にとって私たちは、どんなに無様でも、罪に汚れ
ていても、醜くても、同じように高価で尊い存在であり、私たちがどんな状態であっても
不変の愛を注いで下さるのである。
私たちが作られた理由と目的
先述の②に重なる部分であるが、私たちは神様に愛され、神様を愛し、神様から受けた
愛を他者と分かち合うために生きているのである。イエス様の十字架を信じないでいると
、神様との関係が壊れてしまい、自分が何のために生きているのかを見失ってしまう。
また、神様に愛してもらうばかりで他者を愛さないのも心を劣悪な環境にしかねない。
この状態は死海に例えることができ、死海はヨルダン川の豊かな水が流れ込んでいるが、
その水を蓄えるばかりでどこにも流れていかないので、生物が住めない環境になってしま
っているのである。
大切にしてくださる神様
高価で尊いというのは、平たく言えば大切という意味であるが、この大切という言葉は
辞典などでは“急を要する”、“放っておけない”などの意味がある。神様にとって私たちはそ
ういう存在であるから、神様は決して私たちを捨てないし、どんなところにいても見つけ
出して救ってくださるのである。この神様の愛に応答して、高価で尊い存在に恥じない行
い(先述の愛の歩み)を全うしたい。
まとめ
イエス様の十字架によって神様との関係が修復された私たちは高価で尊い存在とされた
。だからこそ、神様が私たちを作ってくださった本来の目的と意味に沿って、神様に注が
れ続けている愛を、他の誰かとも分かち合う、愛の歩みを全うていきしたい。
礼拝〜午後の部〜
宮澤豊師
『聖なる居眠り』 ルカ8:22-26
「そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいま
す」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪にな
った。」(ルカ 8:24)
あらすじ
イエス様が弟子たちとともに湖の向こうへ渡るために船に乗っていた時、突風に見舞わ
れた。弟子たちが命の危険を感じ慌てふためいている中、イエス様は眠っておられた。
イエス様の言葉は必ず成就する
“湖の向こう岸へ渡ろう”と言われたのはイエス様であり、突風に見舞われることはあった
ものの、最終的には目的地に到達していることから、イエス様の言葉は必ず成就すること
が読み取れる。イエス様はそれをご存知だったために、危険な状態の中にあっても眠って
いることができたのである。
慌てふためく弟子たち
弟子たちの中には漁師の者もいたため、彼らはこの突風は非常に危険なものであると判
断してしまった。イエス様ではなく、自分の知識や経験に頼ってしまったのである。イエ
ス様に全幅の信頼を置いていれば、“イエス様が寝ているなら大丈夫なのだろう”と弟子た
ちもイエス様と一緒に居眠りできていたはずなのである。
これは弟子たちの信仰に至らない点があったわけだが、そこで彼らがイエス様に叫び求
めたことに注目したい。たとえ不信仰に陥っていても、イエス様に素直にその旨を打ち明
けて、叫び求めるというのも大切な信仰姿勢なのである。現に、イエス様は弟子たちに応
え、体を起こして湖を凪にしてくださった。私たちは祈りの中で、立派な言葉を使ったり
、神様の御心にはかなっていそうな内容でも、口先だけでそれを祈っていたりしないだろ
うか。そうではなく、ありのままの気持ちを素直に祈る姿勢が大切なのである。イエス様
は必ず応えてくださるのだから。
ともに背負ってくださるイエス様
先述の箇所で、何もかもを素直に祈ればいいと記したが、それは神様が私たちのことを
、どんな状態であっても愛してくださっているためである。そしてイエス様は(マタイ
11:28-30)のように、私たちの負っている重いくびきをご自身のものとしてともに背負って
くださることが記されている。そして一番重いくびきは私たち自身であり、私たちは日々
、罪を犯してしまう自分や失敗を繰り返す自分に嫌になることがないだろうか。イエス様
は私たち自身をも、私たちの全てをひっくるめて背負ってくださるのである。
教会に行くようになっても、私たちの抱える問題が無くなったり、すぐに解決するわけ
ではない。しかし、イエス様を信じていれば、その問題はイエス様とともに背負うことが
できるようになり、信仰による平安が日に日に増し加えられ、問題を抱える中にあっても
もはやそれは重荷ではなく、イエス様とともに軽々と背負って、力強く歩むことができる
ようになるのである。
まとめ
困難や問題、不信仰に陥ったとしてもそれをそのまま素直に神様に打ち明け、全てを委
ねる信仰へと導かれていきたい。その信仰に平安がもたらされるのである。
2025年11月16日(日)

