2025年9月10日(水) 祈祷会

礼拝

祈祷会

《Ⅰテモテ1:12-16》

「しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」(Ⅰテモテ1:16)

導入

この箇所は、パウロが愛弟子であるテモテに宛てた手紙である。テモテもパウロと同様、牧師として仕える者であったので、教会に属する者として大切なことをしたためた箇所となっている。

救いの確信

教会に属する者として大切なことは救いの確信である。この救いの確信を持つことで、私たちはその喜びや恵みに満たされ、そしてそんな私たちを神様が用いようとしてくださっている召命感に立つことができるのである。そして13-15節を読むと、パウロが以前はどれほどの罪人であったかを振り返るとともに、それほどの罪人であったからこそ神様に救われたことに対する喜びはであり、神様がどんなに寛容で恵みに溢れる方であるかを確信していることが解る。

私たちもパウロのように今一度自分がどれほどの罪人であり、どんなところから救われたかを思い起こし、そんな者ですら救われて、恵みを注がれていることに感謝したい。そうして信仰が深まれば深まるほど、救いの確信へと導かれていくのである。

私たちの歩み

私たちが救いの確信を持って歩むことは、神様の恵みと寛容がもたらされている者の一例として用いられる。それが周りの人への証しとなるのである。そのため、救いの確信を持って歩むことは、同時に主に用いられるその召命感に立っていることにも繋がることを覚えたい。また、どうしても救いの確信を持つことに実感を覚えられないことがあれば、神様の御言葉を求め、祈ることで主は応えてくださる。

まとめ

自分はかつてどうしようもない罪人であったことを思い、そんなところから救われた喜びや、神様から与えられる御言葉によって救いの確信を持つ。その喜びの歩みが、神様の恵みと寛容を表すことに繋がり、周りへの証しとなるのである。

2025年9月10日(水)